裁判所の使い方

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080414/p1
 どうも、長文ありがとうございます。
 いくつか見落としがあった点は反省しております。
 私も考える時間があった訳で、仕切り直しと言う訳ではありませんが今現在事件に対して考えていることが以下のようなものです。
 本来私はかつて「ブログで書いてはいけないことがある。それは好きな野球チームと、政治ネタだ」みたいなことを書くような人間でしたが、立川ビラはちょこちょこ記事でおいかけてきた事件だけに、つい口を出してしまいました。まあ、自分の行いは自分でケツを拭かなきゃならんわけで、そのことは今さらどうにもならんので、最後まで内観しつつ掘り下げていく所存ですが。
 
 立川ビラの一連の裁判と、ねずみ裁判*1は、似た構造にあると思う。
 登場するキャストは色々と違うが、被告の立場に立たされた者の持つある種の「もどかしさ」は共通してはいないだろうか。
 立川ビラの被告は、警察から言論弾圧を受けたと主張する。しかし裁判所は不法侵入を理由に罰金を科した。
 ねずみ裁判の被告は、手抜き工事を指摘されるのを恐れた積水側が差別事件をでっち上げたのだと主張する。しかし裁判所は差別発言に対し罰金を科した。
 原告の立場になったものたちにも共通点があるだろう。攪乱・先制攻撃的な起訴でもって対象を被告の立場においやり、行動を制限させたのだ。
 そして形式的な軽微な罪状による裁判。しかしこれらは完全に合法であり、手続き上は何の問題もない。裁判所は「出された料理しか食べない」主義なので、検察が持ってきた起訴状に沿った展開しかしない。できない。
検事「あなたは、○○をしましたね?」
被告「しかしそれには、××と言う事情が……」
検事「今は○○について聞いてるんです! 関係ないことを言って裁判の進行を妨害しないでください!」
裁判長「被告は質問にこたえるように」
 こう言ったやりとりが繰り返されたのだろう。
 警察や積水がやった(と思われる)ことは許しがたく腹が立つ。しかし、彼らはうまく立ち回っただけとも言える。裁判所の動きを研究し、法廷戦術によって社会的に「敵」の動きを制約し、自分に有利な戦場を作り出し、「敵」に軽微な物量的敗北と、巨大な精神的敗北を与えた。法治国家では法を使いこなすものが強いと言う真理を証明してみせたのだ。
 その意味で実は私は立川ビラの被告にも同情はしている。しかしもっと同情するべき人がいると私は考えているのだ。
 それは、最初の自衛隊官舎の住民だ。無論これは私の脳内の声かも知れない。けれど、官舎住民がビラを配られたくなかったと言うのは確かだろう。本来裁判は「住民対立川テント」だったはずなのに、立川テントは目の前の住民を無視して、裁判所に顔を出すはずもない警察を相手に憤りをぶちまけたのではないか。
 立川ビラ被告を擁護するコメントを見る度に、私はおきざりにされた官舎住民のことが気になって仕方がなかった。そしてその度に立川ビラ被告への同情心は薄れていったのだ。
 裁判の後、立川ビラの人は、官舎住民に対して何かをしたのだろうか? そういう話は伝わって来ない。ただひたすら警察の横暴をこき下ろすだけではなかったか。
 官舎住民はビラ配布をやめてくれればそれで何も問題を大きくするつもりはなかったのではないのか? 自分の主張をするのに忙しくて、官舎住民の主張を聞かなかったことに対して何の反省もないのか? 立川テントがビラを配る相手の声に耳を傾ける余裕があれば、本来この事件は起こらなかったのではないか? 官舎住民との対話を拒否したのは立川テントではないのか?
 初めてこの事件の概要を聞いた数年前から、ずっと同じ疑問を考えていた。
 そして最高裁での判決が出て、それでもなお立川テントは官舎住民をおきざりにして警察の言論弾圧を非難した。警察が無謬だとかそんな幻想は私は持っていないし恣意的な運用があることも理解はしている。警察への怒りもわかる。けれど、立川テントにも反省すべき点は本当になかったのか。
 もし、立川テントと警察の衝突が不可避のものだったと仮定するならば(それはとても悲しいことだと思う)鹿児島の踏み字裁判を参考にして別方面から警察に対する攻撃ができたのではないか、と思わないでもない。つまりさっさと一審で不法侵入を認めて終わらせて、今度は取り調べの警察官を人権侵害云々で攻守逆転させて法廷に引きずり出すこともできたのではないかと思うのだ。
 それともこれも、できもしない妄想と一蹴されるのだろうか。