懺悔。不快な表現が含まれています。たぶん。

これより三つの事柄について懺悔します。クリスチャンではないのでゴッドに対して告解する訳ではありませんが。

  • 猫を殺してしまったこと
  • 自分がどうしようもない人間であること
  • どうしようもない人間である自覚があってなおそれをどうこうしようと思わないこと

猫を殺したこと(事実のみで、どう思ったかは描写していません)

仕事帰り、家の猫のためにキャットフードを購入する。その後、野良猫のたまり場になっている場所があって、そこを通りかかったとき、道路に飛び出してきた猫を轢いてしまった。ドン、と言うショック。ほんの少し、車が持ち上がる感触。
通り過ぎた後、車を止め、ルームミラーを見ると、轢かれた猫がばたばたと足を上にして暴れていた。ハザードをつけて車から降り、猫に近づくと、猫はもう時折ビクつくだけになっていた。
上半分が黒く、喉から腹にかけてが白いその猫は、アスファルトに横たわり、ドロドロとした血を吐いていた。胃の中のものも混じっていたのかも知れないし、耳からも出血しているようだった。ただ、体にタイヤの跡は見当たらなかった。俺は猫に向かって、謝った。殺してしまって済まない、と。
近くには、いつも野良猫に餌をやるおばさんがいて、すでに携帯でどこかに電話していた。おばさんは「もういいから」みたいなことを言っていたが、俺は家人に電話して事情を話して遅くなる旨を伝えた。家人は頷いて「洗車してから帰って来い」と言ってきた。
おばさんの電話先は、このあたりの野良猫を一番かわいがっている別の猫おばさんのところだった。俺は猫がこれ以上轢かれないよう、道路に立って時折通る車を誘導しながら、そのボスおばさんが来るのを待った。
やがてボスおばさんが車でやってきて、車中から紙袋を取り出した。ボスおばさんが紙袋の口を開け、俺は殺してしまった猫の体を抱えて、袋に入れる。袋はB5の雑誌を横にしてちょうどくらいの大きさで、成猫が入るか疑問だったが、既に体温を失いつつあった猫の体は死んでもしなやかさを失わず、まるで眠るようにくるりと丸くなって収まった。高さも紙袋の半分くらいしかなく、まさに物のようにコンパクトに収納されてしまった。
仲間だろうか、さらに大きな黒猫がやってきて、紙袋の中の黒白の体に鼻を近付けてフンフン言っている。もう一匹の白地に薄い灰色のブチの猫は、アスファルトに残った黒白の血痕をフンフンと嗅いでいた。猫おばさんが危ないと猫を呼ぶが聞きやしない。人間慣れしているので、触っても逃げない。俺はブチ猫を抱えて歩道に降ろした。
先にいた猫おばさんが、ボスおばさんに「人間を撥ねても放っておくようなご時世に、猫がこれ以上轢かれないように車を誘導した立派な人」などと俺を紹介する。ボスおばさんは、死んだ猫を「ちゃらちゃらした猫で、いつかこうなると思っていた」と評して、後はまかせて欲しいと言った。
俺は礼を言ってその場を離れた。それからいつも使うガソリンスタンドで、洗車を頼んだ。洗車の間に、待合コーナーでサービスの煮詰まった泥水のようなコーヒーをすすった。
帰宅。家人から、明日は乗る前に塩を振っておけと言われる。また、猫には悪いが人間でなくてよかった、とも。

自分がどうしようもない人間であること

自分は、自分が交通事故に遭ったことでさえネタにして記録せずにはいられない人間で、むしろ火事場であればあるほど、目が開いて落ち着いて観察してしまうようだ。原付で軽自動車にぶつけられた(交通事故一日目 - 永字八法)こともあったが、その時は体動かねえなとか思いつつ、加害者の慌てぶりに内心ツッコミを入れるような、どこか間違っているような冷静さが自分の中に潜んでいる。逆に自分が加害者になった時も、この冷静さが顔を見せ、俺は猫の死に到るプロセスをじっと見つめられたし、猫おばさんがヒステリックに携帯に向かって叫ぶのをウザいと思ったり、猫の死体を持ちあげる時に体温はどんなだろう、とか、手に血がつかないか心配だ、とか考えていた。他の猫が黒白や黒白の血痕に近づいた時、猫が黒白や血痕を舐めるのかと思って観察していたし、「立派な人」と紹介された時も、脊髄反射で「立派な人はそもそも猫を轢いたりしない」と思ったし(口にはしなかったが)、時折通る車の主観5割が携帯かけながら運転していて、誘導しながら「もしかしたら、俺も轢かれるかもな」と思っていたりした。
猫を轢いてしまったことに悲しみもあるし後悔もあるし不快感もあるのだが、それよりも言わば好奇心が強く事態の推移を記憶せよと叫ぶのが自分と言う人間だ。
度し難い、と自分で自分のことをそう思う。俺は親が死んでもこうなんだろうか。否定できる材料は何かないんだろうか。

どうしようもない人間である自覚があってなおそれをどうこうしようと思わないこと

自分がこうなったのは、結局高校時代からの積み重ねである。創作(の真似ごと)をしていたあの頃から、「人生これ全てネタ」と言う姿勢が染み付いてしまった。もう、この姿勢は一生やめられないとなんとなく思っている。

追伸

どこか、猫の供養のできる寺社はないかなあ。

さらに追記

動揺や恐怖を感じていたのは確からしい。
猫ばかり観察して、自分の車がどうなっているのか観察していないことに気付いたのは、車を洗車に回した後だった。
動揺していて気付かなかったのか、あるいは無意識に調べることを避けていたようだ。よかった。自分にもまだまともな感情が残っていた。