紳士の倫理

 私がまだボンクラ大学生だった頃のことだ。
 ある昼下がり、私はローカル線の電車に揺られていた。駅が近づくと、ドアの近くにいた老人がゆっくり立ち上がり、降りる姿勢を取っていた。
 やがて電車が止まり、ドアが開くと、中体連の帰りなのか、ジャージ姿の浮かれた様子の中学生たちが4人、老人を押しのけて電車に乗りこんできたのである。なんらかの競争をしていたようだ。電車の運転士が叱責の声を飛ばし(それは私の内心の叫びでもあったのだが)たが、中学生たちには毛ほども通じてはいなかったようである。彼らは電車の中で相も変わらず騒いでいた。
 私は想像の中でこの中学生たちを走行中の電車から放り出しただけで、実際には何もしなかったのだが(件の老人は既に降りていたこともある)、この時以来、何かから出て行く人間を押しのけて入ろうする人間は、人類の範疇から外すことにしている。
 さて、現在。とある公共の場所にあるトイレで用を済ませた私は、速やかに外にでようとしたのだが、その出入口で別の紳士とはちあった。しかし驚くべきと言うか、この紳士は私を押しのけて堂々とトイレに入っていったのである。私は内心憤慨したが、しかし時間をおいて考えてみると、彼の紳士の行動が理解できるような気がしたのである。
 普段ならば、何かから出る人を優先し、それから入る人が入る。これは合理的であり、理性的であり、かつ倫理的でもある。しかし、それが覆される状況と言うのは確かにあるのだ。すなわち、緊急時である。患者を載せた救急車はいくつかの交通法規を無視することが認められており、パトカーにいたってはかなりの部分を無視できる。条件さえ満たせば、である。
 そう、彼の紳士の膀胱ないし括約筋が緊急事態であったとするならば……彼が人を押しのけるような行動に出たことも、あながち非難すべきではないかも知れない。
 真実は(まさに)闇の中だ。
 ただし、紳士としては、火事場においても常に礼儀作法を忘れないような余裕が欲しい、とも思う。