一粒のゼリービーンズなかりせば(ウザい自分語り)

 私が二番目くらいに世界に絶望したのは、幼稚園か小学生低学年のいつかのことだった。
 その世界に対する疑惑は、一粒のゼリービーンズから発芽したと言うと、誰か信じてくれるだろうか。
 その頃の私は、世界に悪や死が存在することの絶望を乗り越えたばかりだった(それを知ったのもマンガなら、乗り越える助けもマンガだったと言うのが本当にどうしようもないことなのだが、詳しくは余談なのでさておく)。そして、世界と言うものが何らかの超越者によって支配され、日本仏教的な因果応報のシステムが確立していると考えていたのだ。無論、こんな小難しい言葉で考えていたのではない。「悪いことをすれば、閻魔大王に裁かれ地獄に落とされる」そう、無邪気に信じていたのである。今では言えなくなったが、その頃の私は八大地獄とその罪状・内容くらいはそらで言えたはずだ。思い出すだけで嫌な子供だ。親の顔が見たい。毎日見てるが。
 ある時、児童の私は両親に連れられてデパートにやってきた。食品売り場の特設コーナーで、山盛りのゼリービーンズの前を通った時、私はついムラムラとそのひとつを取って口に入れてしまったのだ。両親も店員もそれに気付かなかった(少なくとも、何も言われなかった)。あれが結局何味だったのかは今に到るまで思い出せないのだが、そのことで私は倫理的に苦しむことになったのだ。
 想像の中で私は地獄の法廷に立っていた。右側にはスーツを着た牛頭だか馬頭だかが立っており「……このようにして、被告は○○店長××に対し、ゼリービーンズ一粒分の損害を与えたものであり、情状酌量の余地はなく、△△の刑を求刑するものであります閻魔裁判長」みたいなことを朗々と述べていたりするのだ。そして左側には浄玻璃の鏡があって、その時の様子をエンドレスで流し続けている。
 しかしそれからどれだけ待っても罪に対する罰らしきイベントは起こらず、時間だけは過ぎていき、そして時間があれば考えるか本を読むかしていた私は、ついに世界を支配する法則の一つに気づいてしまったのだ。
「バレなきゃ大丈夫なんだよ」と。
 日常の一挙手一投足を見張る超自然の目が存在しないことに気付いてしまった。世界は誰も見ていないところでは、どんな悪が為されてもわからない、誰も是正できないことに気付いてしまった。アカシックレコードは存在しない、あるいは触れないところにある。世界は暗黒に満ち、不完全で、誰も完全に記録できない。イベントは起こった端から忘れ去られる、まさに無常の世であることに気付いてしまった。
 理性によって、倫理に強制力がないことを理解した私だが、同時に倫理もまた既に抜きがたく心に根付いており、理性と感情の対立を経験した瞬間でもあった。
 そして考え続け、両者の矛盾を止揚アウフヘーベン)することに成功した。倫理のない無法状態では社会は成立できない。しかし現状、社会が成立していると言うことは、その構成員全員がある程度は倫理に従って生きていることの証拠である。この世は全くの無法ではないのだ。
 だがこの考えは、さらなる不安定を呼び込む原因にもなった。倫理が強制力を持たない以上、大部分の人間が倫理を失えば、たやすく世界は無法の野に変わってしまうだろう。他人の倫理に期待することは決してできない。社会の維持とは、いつ落ちるかわからない綱渡りでしかなかったのだ。
 世界が完全ではなく、完全になる見込みもない。不条理や理不尽ばかりが襲い掛かり、それらとの明日の見えない戦いをしているうちに人生は終わってしまうのだろう。その徒労感に勝てるのだろうか。私は絶望を乗り越えたが、勝利の快感はなかった。
 私はその絶望を忘れるためにさらに本(とマンガ)のページをめくり続けた。