世界は実は三層構造
「ひぐらしのなく頃に」で作者が語り終えた時、読者はその世界を、二層構造だと認識していた。すなわち、圭一たちのいる現実レイヤー(ゲーム盤レイヤーと言い換えてもよい)と、梨花・羽入のいる霊的レイヤー(テーブルレイヤーと言い換えてもよい)の二層構造である。
「うみねこのなく頃に」が始まった時、同じように二層構造だと思われたが、仔細につき合わせてみると実は違うことに気付く。
「ひぐらし」もまた、三層構造であり、「うみねこ」も同様に三層構造だったのだ。
レイヤー名 | 現実レイヤー | 霊的レイヤー | 高次元レイヤー |
---|---|---|---|
ひぐらしのなく頃に | 圭一たちのいる現実 | 梨花と羽入 | ベルンカステルとラムダデルタの主催するお疲れ様会 |
うみねこのなく頃に | 戦人たちのいる現実 | 六軒島のベアトリーチェ | ベアトリーチェの主催するTEA PARTY |
気付いている人も多いだろうが、古手梨花はベルンカステルではない。イコールでは結べない別個の存在だ。古手梨花はいずれ成長し老いて死んでいく定命の存在であり、ベルンカステルは自分が飽きるまであり続ける高次の存在である。
ひぐらしでは、ゲームが終わる度に梨花と羽入によって新しいゲーム盤が用意された。しかしさらにその背後で、関係者一同が(恐らくはベルンカステルの力によって)集められ「お疲れ様会」と言う名の感想戦を行っていたのだ。今回のゲームはあれがよかったこれがよくないだの、と話し込み、次のゲームでよりよい最善手を打つために。
うみねこでもこの構造は守られた。六軒島のベアトリーチェはTEA PARTYのベアトリーチェではない。こちらはより親密な関係はあるだろうが(恐らく、本体と水面の月程度には)、本人ではない。TEA PARTYの強大な魔女と、六軒島の虚弱な魔女の差異が一応はこれで説明がつく。
うみねこの場合感想戦を主催しているベアトリーチェの性格がアレなので、まともな感想戦になっていないことが問題で、そのためにわざわざベルンカステルやラムダデルタも動員しているのだが、やはりこいつらにも問題がないと言い切れず、かえって指し手を混乱させているきらいがある。
ゲーム本編中に挿入される戦人とベアトリーチェの赤字ルールでの会話は、ゲーム盤から離れたプレイヤー同士の会話であり、レイヤーで言えばTEA PARTYと同一の並びにある。
さて。このような構造があるとして、次は「それがどうした」である。そこから何かを得られなければただの与太でしかない。古手梨花とベルンカステルを分けることで見える物、ベアトリーチェを二つに分けることで見える物を説明しなければならない。
ベルンカステル、ベアトリーチェ、ラムダデルタの目的は「退屈しないこと」であり、雛見沢にしろ六軒島にしろ、そこが面白そうだから執着しているのであり、飽きればいつでも捨てて別のゲーム盤を探しに行く程度の存在でしかない。チェスに飽きれば、次はバックギャモンでも将棋でも始めればいいのだ。特にベルンカステルは、ラムダデルタがまとわりついて鬱陶しいならソリティアでもいいんじゃないか?
ただ、我々としては他人が飽きようが飽きまいがそんなものは知ったこっちゃないので、むしろこの魔女どもは放っておいてよい。勝手に飽きて勝手に死んでください、だ。
それよりも、現実世界との接点を持つ梨花や六軒島のベアトリーチェに注目するべきだ。梨花が雛見沢に執着した理由は、そこが彼女の生きられる唯一の土地であり方法だったからで、「生き残る」と言う明確な目的があった。同様に鷹野も「祖父の研究を世に認めさせる」と言う大目的があった訳だが。
では、六軒島のベアトリーチェの場合はどうか。私は彼女を羽入と同様の存在だと考えた。EP2で垣間見える事情を総じてみると、六軒島のベアトリーチェは、金蔵の魔術によって島に封印された存在だとわかる。だからこそ解放を願っているのだろう。
さて、ここからが妄想全開だ。(続く)