殺人学概論第六講

殺人学概論第五講 - 永字八法の続き。
ここでは視点を変えて、殺人の手段そのものについて考える。一体どのような殺人方法が有効なのだろうか。
実際のところ、人間を殺す方法は無限と言っていいほどある。戦争や陰謀の歴史は、同時にいかにして人間を殺すのか、殺人技術の進歩と発展の歴史と読み替えることができるほどだ。
人体の構造が人類発祥以来変わっていない状況は、数千年前に発明された殺人方法が現在でも有効であることを意味し、つまりそれは殺人方法が増える一方であることも意味する。素手で、道具を使い、武器を使い、機械を使い、動物を使い、植物を使い、毒を使い、首を絞めたり折ったり頭を割ったり心臓を止めたり、焼いたり冷やしたり血を抜いたり呼吸を止めたり、ありとあらゆる手段と方法によって人間を殺すことはできる。
ここで大事なのが、手段はそれこそ星の数ほどあるが、逆にどんな手段で殺されたのか、それを調べる方法もまた星の数ほど存在することである。
真剣、拳銃などは殺人目的のために高度に洗練された道具であり、それ故に社会的に大きな制限を受け、同時に犯人特定の手がかりとなってしまう道具である。従ってこれらの行使は明確な殺意の存在を示唆してしまうし、入手ルートによって犯人を特定される恐れがあるので、殺人学的にはあまりよろしくない。
毒もまた同様である。毒物の入手は犯人捜査の手がかりを警察に与えてしまうし、毒物の特定はそれほど難問ではない。
毒物の親類である病原菌ならばかなり事情は変わってくる。
が、一番よいのは事故を装うことであろう。それも、特定の凶器に頼るのではなく、現場にあった何かを応用して凶器にするのが最高である。
計画を立てつつも柔軟な発想で殺すのに最高の時と道具を手に入れて、すばやく殺して死角に隠れる。これが殺人学の基本である。

計画性をもって突発的に。
……まるで、消費者金融の宣伝文句みたいだ。