努力する意味

何か新しい文物に触れると、ついついそれをもっとよくできないかと考えてしまう自分がいます。
あれをこうして、これはああして、もっと強力に、もっと使いやすく、軽く、速く、見やすく、と。

私にとっては、HTMLによる自己表現がその中にあった訳です。
最初は無論、簡単な気持ちでした。
けれど、もっと合理的に、管理しやすく、見やすく、直感的なインターフェイスを、と考えるうちに、いつのまにか今のこの状態までなることができました。
内容を考える時間を除くと、毎日の更新に必要な時間が10分かそこらでよく、デザインの変更が容易であり、しかもその変更が過去に作り溜めた全てのコンテンツにも適用できる。

このシステムを作り上げるのに、私はHTMLとPerlHTTPDが必要でした。そしてそれらの技術を、誰かに言われたからでなく、やりたいことを実現するために必要だと考えたから修得したのでした。
思うに、何事にも「これを実現したい」と思うことが最初に必要だと言うことなのでしょう。

そして今、私はHTMLとPerlについては、簡単なものなら何も見ずに作れるようになりました。
今は、データベース技術であるSQLを学んでいます。大量のデータを素早く扱うための技術です。
もし、SQLを学び一通りのことができるようになったとしても、今度はそれらの技術を使って、また新たなことがやりたくなるでしょう。
そして考えるうちに、これらを統合する新たな技術が必要になり、まだ見ぬその何かを、また勉強し始めるだろうと思います。

ここで気になるのは、学ぶ速度のことなのです。
もしこれが、24時間全てをこれらのやりたいことに費やせる環境だったならば、と思うのです。

本人の意思がどうあれ、学習効率は年齢と共に下がっていきます。学習に費やした時間に見合う成果が得られなくなるのです。簡単に言えば、新しいことを覚えられなくなる。
訓練によってこの低下を抑えることはできるでしょう。しかし、学習効率を支える何よりの要素は、本人のやる気、つまり、心の底からそれをしたいと思うことではないのでしょうか。

かつて、酒の席で職場の上司から言われました。
「お前には仕事に対して感動がない」
未だにもってその感動なるものを正確に定義できないのですが、単純に言えば、「義務だから」仕事をやっているのであって、熱意と言うかやる気が見えないと言いたかったと思うのです。
それはそうでしょう。
もし仕事が人生の中心であるならば、今ここでこんなサイト運営などしてはいません。
仕事は口に糊するため。仕事が人生の中心であると断言する人がいることは否定しませんし、その生き方を否定する気もありません。むいむいとは違うと言うだけの話です。

「人に言えない趣味は趣味とは言えない」
などと言った奴もいました。
余計なお世話だ、と思いました。
ついでに言えば、私の趣味は「人に言えない」ではなくて、「言っても理解してもらえないことが多い」趣味です。(「趣味はデータベースの構築と運営です」だなんて言って旧態依然とした組織に生きる人間の誰がわかる?)
さらに言えば、この発言は「人に言えない趣味」を持っている人間は無趣味のつまらない人間同然と考える思想が見え隠れして、不快になります。
この思想を延長すると、「仕事のためにゴルフを趣味にしました」などと吐き気を催すような発言が飛び出しそうです。そんなものは趣味とは言わないでしょうに。