あんまり調べずに書く話。

 ドラゴンエイジで連載していた「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」が「原作者と作画の仲違いにより」中断にいたったと聞いた。「仲が修復されるまで再開はできない」そうで、作画の佐藤ショウジはすでに「トリアージX」(これはこれで物議を醸しそうな中身に対するタイトルなんだが……)と言う別の連載を始めている。かなり長引きそうだと思わせる事態だ。
 で、それを聞いて最初に思ったのは、何かの政治的主張をしたい原作者と、エンターテイメントに徹したい作画の対立、そういう図式だった。なお、これから話すことは俺の想像なので、絶対に真に受けないで欲しいと前置きした上で好き放題書いてみる。
 この図式は、「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」作中の右翼左翼の扱い方を一応の根拠としている。
 たとえば、主人公の独白にこんなものがある。小学校の頃左翼教師がいて、目の前のいじめには見てみぬ振りをするのに、隣の国には謝罪しようと授業潰して演説してた。逆に右翼については、ゾンビに追われる人々を保護するのが、非常事態に備え食糧や燃料や銃器を溜め込んでいた「組」だった。(しかも組長はメイン登場人物の一人の親である)
 これらの表現は、見ようによってはなんらかの政治的主張として読める。ぶっちゃけると、左翼を貶め右翼を礼賛している、と言えなくもない。
 これはまた一種の暴論なのだが、「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」の醍醐味は「銃と刃、血と火薬、乳とゾンビ」のB級部分(毒島冴子のフィギュアを見よ!)にあるので、正直前述の「政治的」表現は連載中ノイズのように感じていた。
 そのノイズを説明するのに、原作者と作画の対立と言うのは一応の回答になるなあと、それだけの話ではある。
 で、何故原作者の方が主張に積極的だと判断したかと言えば、作画の佐藤ショウジの作歴からの消去法である。
 佐藤ショウジの同人サークルINAZUMAの作品を見ればバカエロに徹している(奴隷ジャッキー並にエロいのに「使えない」事態に)のは明白だしヤングキングアワーズで連載していた「ふたりぼっち伝説」は、女冒険家とスケルトンのコントがひたすら続き政治的主張をさしはさむ余地は南米遺跡の石組並に皆無だ。
 そんな訳で佐藤ショウジ政治的主張よりもエンターテイメントを優先する気質があって、なので消去法として原作者に政治的主張をしたがる気質がある、と判断したのだが。
 まあ、この仲違いに対する分析が正しいかどうかはおいておいて(十中八九間違ってるだろうし)、結局のところ「B級エンターテイメントに政治的主張を盛り込むのは野暮」の一言に帰着させたい。実際、予防線と言う意味でもこの主張は実利的に思える。下手に盛り込むと右や左に利用されかねないし。
 さらに踏み込むと、作者と作品は別と言うのはよく言われることで、しかも事実だ。
 たとえば秋恭摩のブログははてサなんかから見ると「どこの量産型ネトウヨだよ」と呼ばれるような代物だが、彼の作品にそう言った政治的主張が出てきたと言う記憶はない。多分。あるのは厨二的な大風呂敷ときっついエロとアクションだけだ。
 一方で山本夜羽根のように、自ら左翼を標榜しつつ作品にもその思想性を滲ませてはばからない作者もいるので、「作者と作品は別だが、似せることもできる」と言うのが実際なのだろう。
 もっとも、最近のエロ表現規制、女性の人権に関する議論からすると、前述の三人は等しくポルノに係る者として「同罪」ではあり、その意味では規制派からは利用されまくりではある。(そしてコミケでそれらを買う俺も少なくとも従犯……)
 右とか左とかに関係なく、エロい物を書きたかっただけなのに、今度はエロいことそのものを理由に規制されると言うのは、ほんとお寒い限りだ。「政治的に正しい」英語の教科書みたいな会話のエロゲーで一体誰が抜けるってんだ?