四苦八苦

ちょっと仏教的な話。
四苦八苦と言う言葉がありまして。具体的には四つの基本的な苦しみとさらに四つの副次的な苦しみを合わせて八苦と呼ぶ訳で、四文字熟語にする意味があるのか疑問な訳ですがともかく。
その苦しみの一つに「愛別離苦」、愛する者好きな物と離れることの苦しみと言うのがありまして、そりゃあ基本的な苦しみに数えられるくらいに辛いものなのは自明で、たとえば愛猫との別れなどはさぞや苦しく悲しいことでありましょう。
仏教と言うものは苦しみの由来・システムを理解して、さらにそれをどうにかする方法を模索・実践する本来は人生論でありまして、六道輪廻を超えたところに覚者がいて彼が救済をしてくれるとか言うような半ばオカルティックな話は後付けでして本筋ではありません。
で、実践はともかく理論で言うならば、苦しみを取り除くにはより大きな視点を持つことがあげられておりまして、それができれば苦しみは薄くできる(なくせるかどうかは微妙)と言うのが基本的な仕組みでありますな。
かく言う私も何度となく猫たちとの出会いと別れを繰り返してきた訳で、それぞれが可愛く、それぞれに個性があり、それぞれの行方不明に涙して来たのでありますが、繰り返しの中で気付けば、命は連綿と続き、仮に途絶えたとしても次の猫がどこからかやってくるのであります。そして私はキャットフードを買い続け、猫たちは食べ続けるのです。
そこでわかったのは、猫が死んだら悲しめばいい、泣けばいい。それがすんだら、今いる猫を無心に世話すればいい、それだけのことなのだと言うことです。
わずかな日月しか生きられなかった子猫もいました。長生きして毛色は褪せ、骨と皮ばかりになってからいなくなった猫もいました。非業の死を遂げた猫もいました。
これじゃあ何のために生まれてきたのかわからない、そう思ったこともありますが、本来生きることに意味などあるはずもなく(猫自身そんなことは考えてないでしょうし)、あったとしても有限の人間の脳で考えても判明する訳ではなく。ただ、世界とは「物質の集まった何か」ではなく「そこに存在する全ての生物の、生きた軌跡の集合」と人間原理的に解釈するならば、生きて在ると言うそのこと自体にすでに意味があるのだと気付ける訳であります。タペストリーを構成する糸は途中で切れてるかも知れませんが、一本たりとて無駄ま糸はありますまい。
悲しむなとも忘れろとも言いませんが、囚われるなとだけは、自戒の意味も込めて強調しておきたいところ。
参考:四苦八苦(しくはっく) - 語源由来辞典
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