スティーリー・ダンは言いました。「自分の弱さを認めること」

労働の意味 - 永字八法で指摘された「あなたは自身欠乏型で……」と言うくだりが笑えるくらいしっくりきた。

精神病質には、従来からいろいろのタイプ(類型)が分けられているが、シュナイダーの十類型の分類がもっとも知られている。それは意志欠如型、情性欠如型、爆発型、発揚型、自己顕示型、狂信型、気分易変型、抑鬱型、自身欠乏型、無力型である。このうち、はじめのほうの七型が主として社会を悩ませるタイプで、犯罪学的に重要である。

流石に精神科の先生に

 三           三三 どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!
      /;:"ゝ  三三  f;:二iュ  三三三
三   _ゞ::.ニ!    ,..'´ ̄`ヽノン
    /.;: .:}^(     <;:::::i:::::::.::: :}:}  三三 
  〈::::.´ .:;.へに)二/.::i :::::::,.イ ト ヽ__
  ,へ;:ヾ-、ll__/.:::::、:::::f=ー'==、`ー-="⌒ヽ

と怒られることはないだろうが、その気があるだろうと指摘されれば、むう、否定できないところよ。
空っぽだから、知識を詰め込もうとするのかねえ。そりゃ、いくら入れても足りないわな。底がないんだから。
また、こんな指摘もされていたりする。

救済されるべき人間という証を得るためでしょう。カルヴィニズム的に考えて。

カルヴァン派のクリスチャンは、いつも神が自分を見ていると考え、天国の門をくぐれるかどうかは、自分自身の行動にかかっていると考えていた訳だ。これはそれまでの念仏的な「祈ってさえいればOK」とか「僧侶の言うこと聞いてればOK」とか言う単純な教義とは違い、どうやったら神の御心に添えるかを自分で考えることを強要される。(それが原因で鬱とかが増えたとか言う研究もあるようだが)
ここで思い出されるのが、http://d.hatena.ne.jp/hitotsugi/20050315/1110913698の話だ。(リンク先、プライベートモードにつき読めないのだが)

永井均の「ルサンチマンの哲学」の冒頭に興味深い挿話がある。
「星の銀貨」という童話を下敷きにした、3人の少女の物語だ。
永井が書いたものの中で、わたしはこれが一番好きだ。
一人目の少女は、道徳的に振る舞ったご褒美に、星の銀貨を得て死んだ。
二人目の少女は、星の銀貨が欲しかったので、道徳的に振る舞った。
そして望み通り星の銀貨を得て、死んだ。
三人目の少女は、道徳的に振る舞うことを道徳的に拒んで、銀貨を得ずに死んだ。
天国でお互いの行動を巡って言い争う、一人目の少女と三人目の少女。
それを見て二人目の少女はいう、
「あなたたちって、とても変。あなたたちはとてもよく似ている」……

ずばり言うと、俺はこの三人目の少女に自分を重ねてしまう。
一人目の少女と二人目の少女の違いは、一人目は道徳的に振る舞うこと自体が目的であり、二人目は星の銀貨が目的になっていることだ。それらを見ている三人目は、自分の行為が純粋に道徳的な振る舞いか、あるいは死んだ後で神様に気に入られたいがための振る舞いなのか、行動する動機が気になってしまう。だから三人目の少女は、それを確信できずに既知の道徳的な振る舞いを拒んだと解釈してしまう。
つまりは、善人に思われたくないと言う変な消極的プライドがあるのだ。(かと言って悪人的にも本当に小悪人にしかなれないのだが)
だから、俺がもしカルヴァン派のクリスチャンだったとしても、特に道徳的な振る舞いなんかはしないと思う。善行は人に気に入られたり人から感謝されるためにやるのではないのだ。ましてや神のためなぞ。全知全能の満ち足りた存在がこれ以上何を求める? 聖書の言葉で好きなものを挙げよと言われれば、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」*1を挙げるだろう。それくらい、善行と言うものに懐疑的だ。
中身が空っぽな上になかなか善行に踏み切れないとは、我ながら難解難入の衆生を絵に描いたようなプロファイルだが、それでもここまで自分を理解できると、少し気が楽になってきた。
※でも、自分に向けた行為には素直にありがとうと言える方がいいし、他人のやった善行には拍手喝采したいよね!

*1:他には、「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」くらいか