宗教とは究極の俺ルール
気になった。
靖国神社の合祀・分祀問題について、あくまでも神道教義の問題と… - 人力検索はてな
しかし正直なところ、護国神社・靖国神社以外で似たようなことをやっていない以上、「教学上できない」と言われたら誰も否定できない(肯定もできない)わけで……。
「俺ルール」と言えなくもないような。
合体! 分離!
いったん一つに合祀した神をまたばらす、なんてことは、普通はやらないだろう。
民話的にも神や英雄は一旦吸収した他の神や英雄を吐きだしたりはしない。エジプトの太陽神ラーは様々な神を習合してその権能を奪いつつもラーであり続けたし、弘法大師空海は日本全国で5,000以上の伝説の主役になっている。これは他の僧侶の功績を吸収したと見るのが素直な見方だろう*1。
なので、「じゃあ、ばらす方法ってあるの?」と聞かれた時に、ルールが曖昧だったとしても悪いとは言えないだろう。
批判できるか。
また、「分けられない」が比較的「新しい」「俺ルール」だったとして、それが批判の理由になるか、と言う問題もある。
ユダヤ教から分派したキリスト教を「新しい」からと批判できるだろうか。キリスト教から派生した(と本人たちは主張する)イスラムを「新しい」と批判できるだろうか。カソリックとプロテスタントをどちらが古い新しいで批判できるだろうか。キリスト教とアフリカ呪術と南米精霊信仰の奇妙な混淆であるヴードゥーを、「新しい」からと批判できるだろうか。
「新しい」を理由に批判することはできないと思う。
イスラム*2は、成立した当時から「禁酒」を謳っていた。戒律に「禁酒」が加えられた理由には、ムハンマド自身の飲酒にまつわる苦い思い出があるのではないか、と外野は勘ぐっている訳で、これが正しければ「禁酒」はまさにムハンマドの「俺ルール」と言うことになる。ならば、「俺ルール」であれば守る必要はないかと言うと決してそんなことにはならず、以後のアラビア世界では酒の代替品としてコーヒーがたしなまれることになる。
「俺ルール」であることも批判の理由にはならないだろう。
俺ルールこそが社会のルール
そう、戒律は時に不合理だ。しかし不合理だからこそ、それを死守する人々を一つの社会集団にまとめ上げることができる。むしろ、戒律は不合理を含まなければならない面があると言えるだろう。
これは何も宗教に限ったことではなく、言語や文化にも言えることだ。
英語の三単現*3を、不合理な、邪魔なルールだとほとんど全ての日本人は、中学時代に一度は思ったことだろう。けれど、これを守ることこそが逆に英語社会に入る条件なのだ。いくら外部の人間が不合理だとわめいても、それがルールであり、守らなければ英語社会には入れないのだ。いくら外人が「膠着語はほんまわからん」とか言っても、日本語には格助詞がつきまといつづけるのだ。
戒律は不合理かも知れない。けれど、守らなければならない。何故ならそれは戒律だからだ。好きとか嫌いとかはいい。戒律を守りなさい。
戒律の変更には社会集団全員のコンセンサスが必要になるだろう。特にそのルールを定めたり、遵守するよう触れまわっている層に対して。元が非合理なだけに、理詰めで変更を求めることも効果が薄い。
ちょっと考えただけでかなり無理っぽい気がするな。
補足
元の質問は直接俺ルールを批判している訳ではないが、そういう方向に行きそうだな、と感じたので、先回りして批判云々書いておいた。質問者に批判の意図がないのであればそれはそれでいいんじゃないでしょうか。俺の人生勘違い。