長文その3。これで終わりかな?

ネタをネタとして(以下略)または、個人宛長文その2 - 永字八法の続き。
 あー。逃げられた。俺の釣りの技量もたいしたことはないと言うことか。
 素粒子の真似して、皮肉とかあてこすりとか、そういう表現技法を使ってやんわりと「あんた、自分が何言ってるかわかってんの?」と指摘したら、一瞬は「侮辱的、感情逆なで」されたとばかりにかみついてきたけど、反論できなくなったみたいで「レッテル貼」「早すぎる一般化」「人格批判」「藁人形叩き」の言葉(リンク先のコメントね)を残して逃げてしまった。その割に、はてなブックマーク - kurokuragawaのブックマークからのアクセスは続いているのが微笑ましいところで。
 しかしほんと、気づいてなかったのかね、この人は。素粒子に対して反応した鳩山を「マジレスかっこわるい」と批判するなら、自分も同じ程度の脊髄反射をしてるってことに。
 まあ、この人の場合は、むしろ足元をしっかりと固めないとね。あれだけコメントつけられてるんだから、それらにきちんと対処しないといずれ命取りになりかねんし。うちに出張してくる暇があったらねーって話。
 さて。もう読んでないだろうけど(そう宣言した以上、これにコメントがついたら本当に笑い話なんだが。だからと言って拒んだりはしませんよ?)最後のコメントについても、二言三言言っておこうかね。

文章が読めない人ですね。
私は「風刺コラムの真意を掘り下げることに意味はない」「勝手読みすればいい」と書きました。
そして、「勝手読みが外れていれば恥をかくのは自分」と言ったのです。
被害者遺族の会はまさに「見当違いな勝手読みして恥をかいた」だけのことです。私が擁護する理由は何一つありません。
仮に擁護するとしたら「朝日の真意は〜 だから批判は外れている」といった批判が出た場合だけです。永字八法さんが朝日批判で「真意」にこだわったのが無意味なように、朝日擁護で素人推理の「真意」を持ち出すことにも意味はありません。

 素晴らしい。自分が何を言っているのか本当にわかってないみたいです。
 彼の言った言葉(要旨)から矛盾を一つ導き出してみましょう。

  1. 素粒子の真意がどこにあるかは関係ない。
  2. 素粒子をどう解釈するかは、全て「勝手読み」である。玄倉川も含めて。
  3. 勝手読みが外れて恥をかくのは本人だ。
  4. 遺族団体の読みは外れている。恥ずかしい連中だ。

 矛盾があることがおわかりでしょうか。正解が示されないのに、特定の回答をつかまえて間違っていると断じたのです。

  • 素粒子の真意が示されない以上、誰にも当たり外れを判定することはできない。
  • しかし遺族団体の読みは外れていると玄倉川氏は断言した。

 本当は「玄倉川の読みと違うものは全て外れ」と言いたいのではないですか?
 自分で矛盾した電波ゆんゆんの文章を垂れ流しておいて「文章が読めない人ですね」と言う批判は、まさに悪いジョークです。大変面白かったですよ。自分で自分の恥をさらして笑いを取るのは、なかなかできない芸ですからね。尊敬します。

「本来風刺とは、命がけのものでありましょう。」
あはは。ご冗談を。
他人に「命がけ」を要求することほど簡単なことはありません。
永字八法さんなら特攻隊の司令官を十分勤められます。もちろんご自分は飛行機に乗る必要はありません。

 おや、玄倉川氏は自分の言葉に命を賭けていないんですか? まあ、人がどんな覚悟で何かしようと、今の世の中他人にとやかく言われることはないでしょうが、その程度の覚悟で書いた文章ならば、別にblogなんぞに出さずにメモ帳に書いてオナニーしてるのがよろしかりましょう。その方が反論されないので玄倉川氏の精神衛生にもよいでしょうし、つまらない文章を読んで時間を無駄にする人も減るので、世の中のためにもなるでしょうから。
「(玄倉川氏の信じる)神が満員電車のような世界を望まない」のであれば、ついでに「無責任な言論があふれる世界も望まない」でいて欲しいですね。それとも、無責任な言論があふれても許容範囲に収まる程度に、あらかじめ人間の数は制限しておこうと言う意味ですか?
 なお、「先ず隗より始めよ」と言う言葉であれば、ええ知っていますよ。実践しようとあがいておりますから、ご心配なく。しかし私の書いた文章に本気でツッコミ入れてくる人ってのは、あんまりいないんですよね。何が足りないんですかね。

この一行で永字八法さんがどういう人なのかよくわかりました。これ以上の対話は時間の無駄なので失礼します。

 見事な逃げの文章です。
 まず、その人の主義主張の内容と、その人との対話可能性は全く別の問題です。特に実際に手が伸ばしてぶんなぐったりできないWeb環境ではなおさらです。一番忌むべきは対話可能性を自分から閉ざしてしまうことでありましょう。
 それと、前半と後半に整合性がありません。私をどういう人間だと判断したのかわかりませんし、そのことが玄倉川氏の基準にどう抵触したのかもわかりません。そして何故対話が不可能なのかもわかりません。
 自分だけの基準にもとづき、その基準の内容を示さず誰かをこうだと断じるなんて、なかなか勇気のいることですね。そういうところもきちんと言語化して示せて、初めて責任のある言論になると思います。まあ、玄倉川氏が「責任のある言論」をするつもりがないのであれば、別にそれはそれでいいんですけど。玄倉川氏がどういう人間かなんて、私の人生には全くもってどうでもいいことですし。
 以上、「自分の言葉に責任を持たず適当に書き散らす人」のリストが一人増えた話でした。