貧乏くじ

死神からの伝言 - 玄倉川の岸辺
朝日はそもそも、死神と言う言葉をどのような意味で使ったのか。最も単純化するならば、称賛か罵倒か、と言う二者択一の問題である。
ここで朝日が(と言うよりも素粒子が使った表現形式が)巧妙なのは、あくまで風刺の形式をとっている点だ。
死神と言う言葉が「高邁な目的のため、社会的に必要だが人がやりたがらない仕事を引き受けた奇特な人物」と言う意味なのか「恣意的な殺人者」と言う意味なのか、どちらとも明言していない。素粒子が風刺である*1以上、こういうところで怒る人がいると、「私は死神が罵倒だなんて言っていませんよ。罵倒だと思うのはあなたにやましいことがあるからじゃないですか?」と言った朝日の反論を許すことになる。しかし風刺とはそもそも、罵倒を罵倒に見せないための技法であることを考えると、素粒子の真意が罵倒にあることは間違いない。さらに言えば、もし死神が好意的な表現だったのであれば、朝日は死刑制度を肯定することになり、その点からも真意は罵倒であると考えざるを得ない。
ちなみにこういう死神に類する差別的な意味合いを持つ呼称には、他に屠殺業者や皮革業者、糞便・塵埃を扱う者、あるいは高利貸しなどがある。これらの職業は社会の一画を占め社会を維持するために必須の存在でありながら、差別的な視線にさらされているのが現実だ。死神を否定的にとらえるのは、こう言った社会の「汚れ役」に対する差別意識に通じる物があると思われる。
素粒子が死神を否定的に使った以上、素粒子もまた死神と言う言葉に差別的な意味合いを見出しているのは確かだ。
死神と言う言葉を、善悪を超越して機能のみに注視し「確実な死をもたらずもの」と定義するリンク先の主張は正しいと思うが、真っ先にその本質を見失っているのは素粒子であり、それに反応した連中のみを「きれいごとを守ろうとして本質を見失うのはこっけいだ」などと評するのは、物事を半分だけしか見ていないのではないか。
歴代の法相は、皆死神であった。本人が望む望まないにかかわらず、実際に刑を執行したかしないかにかかわらず、世の中の評価が肯定か否定かにかかわらず、だ。素粒子が叩かれているのは、そういう個人の事情には左右されない部分を使って個人を揶揄しているからだ。鳩山が死神であるならば、それまでの歴代法相をそのように評しなかったのは一体何故なのか。そこに素粒子の気持ち悪さがある。

*1:他ならぬ朝日自身がそう明言している。