ミスター・コンテンツの物語(his story)

 たとえばあなたが本屋にいるとする。そして、目の前に同じ本(or CD or DVD or etc.)の「通常版」と「限定版」があったとして、これら二つの中身が違うと考えるだろうか。「これらは違うけど同じ本だ。うまく言えないけど」そんな風に考えるのではないか。もしそう考えているのならば、あなたは内容である「コンテンツ」とそれを保存する「メディア」の違いを、無意識のうちにでも知っていると言える。
「コンテンツ」と「メディア」は今日ではわかちがたく結びついているように見えるが、しかしそれは最初からくっついて生まれてきたと言う意味ではない。「コンテンツ」は人間が言葉を生み出した時に生まれた青年で、「メディア」は人間が文字を発明して以降に生まれた(コンテンツと比較して)若い娘さんだ。「メディア」の誕生には、「コンテンツ」が関わった可能性がある。それこそアダムとイヴのように、「コンテンツ」が望んだから「メディア」が生まれたと見るべきだろう。
 ここでは彼、ミスター・コンテンツの生涯を語ってみたい。しかしミスター・コンテンツは人間が全て死に絶えた後も生き残る可能性がある。同時に生まれたものの滅びることまで付き合ってくれるかどうかは定かではない。なので、彼の物語はまだ全然終わってはいないことがわかる。従ってここで語ることは彼の前半生と、今後彼がどうなるのか、下世話なゴシップ誌並の予想である。

独身時代

 ミスター・コンテンツは人間が言葉を発明した時に生まれた。普段は人間の脳内に留まり、言葉に乗って外に出て、運が良ければ他の人間の脳内に自分のコピーを増やした。彼は人間がいるところどこまでも広がっていけたが、しかし一方でアイデンティティに悩みを持っていた。口伝・口承に頼る限り、ミスター・コンテンツが拡散・変質していくことは絶対に防げなかったからだ。彼は昨日の自分と今日の自分が、違うとも同じであるとも判断することができなかった。孤独な者は自分を測ることができないのだ。彼は孤独で、頼りなかった。
 人間たちは社会を維持するために、「神話」「伝説」「タブー」「掟」「法律」などのコンテンツを作ったが、それらは容易に変質してはならないことが重要だった。にも関わらず、言ったそばから消えていく言葉に頼る限り、変質することは避けられなかった。人間たちは、ミスター・コンテンツの変質を防ぐ方法を探さなければならなかった。

蜜月時代

 人間が文字とそれを記録する石板・粘土板・木竹簡・紙などを発明した。これによって生まれたのがミス・メディアである。ミスター・コンテンツは彼女と出会い、早速ミセス・メディアに彼女を変えてしまった。人間の脳内に留まるばかりだった彼は、ミセス・メディアの尻に敷かれることで、人間によらないで存在することができるようになった。そればかりか、不変性も同時に手に入れたのである。アイデンティティ・自己同一性の確立である。
 人間たちは自己の考えを外部に書き記すことで、変質してはならないコンテンツを安全に保存することができるようになった。メディアに記されたコンテンツは、メディアの物理的な変質の脅威によってしか、アイデンティティーを脅かされることがなくなった。
 ただし、ミスター・コンテンツとミス・メディアは、自分を完全にコピーすることは相変わらずできなかった。代表的な手段、たとえば写本などによってコピーされると、そこには意図するしないに関係なく、変質する可能性が常に存在した。この可能性が、コンテンツ・メディア夫妻の次の悩みであった。しかし、二人は仲好くべったりとやっていた。

放蕩時代

 グーテンベルクとか言う人間が活版印刷術を思いついて実行した。この発明はコンテンツ・メディア夫妻にとって大きなターニング・ポイントだった。活版の耐久度にもよるが、コピーによる変質の可能性を極小にしてしまえたのである。
 これはひとつの大きな進歩であったが、同時に二人の仲を微妙なものにしてしまった。たとえば、「聖書」と言うコンテンツは繰り返し繰り返し違うメディアを妻として出版された。豪華装丁・廉価版・庶民向け・限定本・etc. 同じ内容なのに形が見る度に違うのである。一方でメディアの方も複数の夫と付き合うようになった。旧約聖書新約聖書を同じ本に入れてみるとか、聖書の一部のみを掲載したパンフレットとか、聖書と同時に高名な枢機卿の注釈をつけてみるとかなんとか。ミスター・コンテンツとミセス・メディアは、お互いに縛り合うこともなく、好きにくっつきまくるようになった。遅すぎた大恋愛時代であったが、それでも二人はまあまあ仲良くやっていた。少なくとも、お互いが不要になることはないとお互いが考えていた。

別居時代

 電子データ・磁気データの発明により、ミスター・コンテンツとミセス・メディアの結びつきは極限にまで疎になった。あるいは疎に向かいつつある。(本などの放蕩時代の産物が残っている限り疎にはなっても断絶はありえない)巷のハードディスクの中には、ミセス・メディアから解放されたミスター・コンテンツが大量にゴロゴロしているのは周知の通り。これらのミスター・コンテンツは独身貴族であり、時折、メディア・リーダーと呼ばれるタイプのコールガールと結びついては、人間の脳内に遊びに出かけるのである。wordコンテンツにはwordと言うコールガールを、pdfコンテンツにはpdfリーダーと言うコールガールを、mpgコンテンツには色んな種類のムービー再生アプリケーションが必要である。
 コンテンツをコピーするコストもまた極小に向かいつつある。電子データのコピーは活版印刷術の比ではなく容易で低コストになった。
 しかしここで独身時代の問題がぶり返して来た。電子データは痕跡を残さず編集改竄することができる。ミセス・メディアの尻にしかれることで保たれてきたアイデンティティが、独身である純粋な電子データでは保証できないのである。これはミスター・コンテンツが現在になって直面した古くて新しい問題と言えるだろう。

独居時代

 さてここからが与太になる。ミスター・コンテンツとミセス・メディアの関係は今後一体どうなるのか。大胆に予想してみたい。
 ミスター・コンテンツは、やがて自分自身だけでアイデンティティーを保てるようになるだろう。具体的には、編集を加えたらその履歴が保全される完全コーデックの発明によってである。
 SF作品から具体例を挙げると、園田健一「エグザクソン」に登場する画像(+音声)の保存規格「オメガ1規格」*1である。これはまさに前述のとおり、改竄した場合、解析すればそれがわかる完全規格であると言う。作中では、地球に攻めてくる宇宙人の母艦と、それを運んだゲートを破壊した映像をオメガ1規格で録画し、全世界にばらまくことにより、「宇宙人の主力は消滅し、援軍が来ることもあり得ない」ことを地球人・宇宙人双方に認識させた。絶対の事実の前には、いかなる政治的な発言・ジェスチャアも情報操作も効果を失う、と言う社会学上の仮説の証明と言うことになるのだろうか。
 ミスター・コンテンツとミセス・メディアは離婚するだろう。しかしちょくちょく同棲しては別れることを繰り返すだろう。ミスター・コンテンツはアイデンティティーを一人で確立し、そのことで悩むこともなくなり、同じくらいちょくちょくコールガールたちと一時的に親密になり続けるだろう。
 これが私の予想である。楽観的すぎるかな?

隠居時代

 さらに与太。
 人間が絶滅しても、コンテンツとメディアは残り続ける可能性がある。運が良ければ、次の霊長生物か宇宙人が二人を見つけることもあるだろう。
「人間ってどんな奴だった?」
 ミスター・コンテンツは喜々として昔のことを語り始めることだろう。老人の思い出話のように。

*1:多分、こんな名前だったと思う