適当に考えたこと。

 図書館学やその周辺の情報系学問は、極論すると、現実に対する人間個人の能力の敗北宣言に端を発している。
 古代、人間がその社会を維持するために必要だった知恵・知識・情報は、語り部と言う個人内に全て納まっていた。しかし社会の発展とともにその量が増えるにつれ、それらは分類され、複数の語り部によって維持されるようになる(ミューズは9人も必要だ)。やがて文字と書物が発明され、人間は語り部ではなく書によって必要な知識を得られるようになった。しかしそれは、もはや一人の人間が社会全体を把握できないことの証明でもあった。
 一旦は人間の手から離れたこれらの情報を、もう一度支配下に置こうとして生まれたのが、長男である図書館学であり、やがて生まれたデータベース系の技術である。そこに蓄えられた情報一つ一つを理解することなく取り扱う技術の誕生である。
 従って、現実的な範囲で最も理想的な図書館員とは、ただの人間から生まれ、誰かの望む知識全てを提供しつつも、自分自身は無知なままでいる人間のことを言う。他の学問に現を抜かす暇があったら、図書館学を究めなければならないからだ。
 そんな意味で、私は自身が全くの邪道図書館員であることを痛感する。子供の頃から読んだ、見た、聞いた情報をそのまま分類せずカオスのままに混ぜ合わせ、講義でならった図書館学の鋳型に流し込んで、なんとか鋳鉄製の刃にして仕事に使っているのだから。恐らく、純粋培養の図書館学専攻者が持つ鍛造された日本刀の如き技には、文字通り太刀打ちできないに違いない。同じ職場にかような人物がいないのは、果たして幸なのか不幸なのか。