伝わらないもどかしさ

ロボット化する子どもたち - 人工知能に関する断創録

  • 教えたことしかできない、自発性がない、応用がきかない

以前、教育者だった家人から自閉症児の教育風景について聞いたことがあります。
算数の授業で、補助として「さんすうセット」を使わせている訳ですが、これについてもどかしい思いをしたとのこと。
無論、こういう授業は単純計算をさせることで日常の場で暗算ができるようにと言う目的があってやっているのですが、その結果児童が修得した技能は「さんすうセットを使って先生の出す問題を解くスキル」でしかありませんでした。むしろ、さんすうセットがなければ一桁の計算もできない有様だったそうで、教育者の意図は見事に空回りしていたようです。
この担当の教師は当時の指導要領・指導理論に沿って授業内容を決めていたでしょうから、担当教師が悪いと言うことはできないでしょうが、現在の理論を知れば個人的に悔恨の情が湧くのではないかと思えます。
翻って人工知能に適用するならば、快楽原則による教育効果と同時に、人工知能本体による自発性を再現する必要があると考えます。過去の経験から何かをすると快楽が得られるとわかっていても、「だから何」で済まされると困るのです。何かに対する執着・本能がさらに必要なのではないかと思うのです。たとえば、「誉められたい」と言う欲求があってこそ、「○○をすると誉められる」と言う経験則が生かされるのではないか、と言うことです。
ただし、このような欲求の存在は諸刃の剣であることは自明でしょう。
欲望が強すぎればそのために他者を損ねる・殺すと言った行動にも走るでしょう。宗教家たちはそう言った人類の歴史を踏まえて、欲望を捨てたりコントロールする術を研究し続けて来た訳です。
生物が生物である条件を人工知能が備えた途端、人工知能にも宗教の必要性が担保されると言う喜劇。「ロボット(=人工知能)は人類の合わせ鏡である」と士郎正宗が言ったのは正しかったと言う訳です。