反論と言うかね。内ゲバ、(・A・)イクナイ!!

感想がどうこうじゃなくてね。誤読してるのをやめてくれればそれでいいんだけどね。
まあ、今回の反論で、この方のスタンスがおぼろげながら見えてきた。他人を救う気がないんだ、この人。
で、この人は正義などないとか言ってるけど、この人のイメージの上では、「強者=善、弱者=悪」と言う立場を無意識にとってるんだな(強者、弱者の定義はパラダイムに従っているけど)。だから、「努力して強者になれ」と言うんだ。悪から善に迎って突き進めと。生まれつきの格差が絶対だった封建主義から、下克上の概念が持ち込まれた分進んではいるけれど、基本的には「強い者が偉い」と考えているのは変わりない。
この人には「強者か弱者か」の二者択一しか見えてない。実際にはいつだって三つ目の選択肢はあるのにね。

ある日、東門から出ると捨てられた子どもがいた。
次の日、南門から出ると捨てられた身体障害者がいた。
次の日、西門から出ると捨てられた老病人がいた。
次の日、北門から出ると捨てられた死体があった。
(注:何があったかはうろ覚え)

釈迦ならここでこの世に苦しみがあることを悩んで出家するところを、多分この方はこんな風に言うだろう。

「捨てられた子どもがいたがそれがどうした。飢え死にしようがすまいがそれはそいつのせいだ」
身体障害者がいたがそれがどうした。働かないのが悪い」
「老病人がいたがそれがどうした。がんばらないのが悪い」
「死体があったがそれがどうした。弱かったのが悪いんだ」

そんなことは言わないと言うのであれば、愛に餓えた本田透氏の後書きに対して

父親が、母親がって他人のせいにした文書書かれてもねぇ・・・

などとは言えまいよ。子どもがどんな人間になるかは、大部分育てる人間の教育にかかっているんだから。無力な子ども時代をどう過ごすかは明らかに保護者の責任だ。人間はニーチェの言うところの「超人」ではないんだよ?
さて、この方が故意に無視している(と思われる)三つ目以降の選択肢について。
認識を変えることと社会を変えることだ。
これは多くの宗教家思想家が大なり小なりやってきたことだ。
初期仏教では前者が悟りであり、後者がカースト制度の否定だった。
キリスト教では前者が信仰であり、後者が敵を許すことだった。
認識を変えることは電波男の中では「勝利宣言」として説明されているし、社会を変えることは「ほんだシステム」として説明されている。
弱者が弱者のままで(強者になって弱者を苛める側に回らずに)平和に暮らしていける社会を創ろうとしての活動だ。そういう三つ目の選択肢があるのに気付かず、

イヤなら死ぬ気でキモを脱出するしかない

などと言うのは何故だろうか。
まあ、現在の社会に適応するのもありだろうよ。けれど、それには限界があるんだ。社会がある以上、そこには規範があって、その規範の中に入れる人間と入れない人間は絶対出るんだ。なぜなら規範はいまある全体を線引きしてわけてしまう物だからだ。線の内側は全体より狭くて、そこに入るためにはフルーツバスケットが必要だ。線の引き方は理不尽だ。
だったらさ。席を増やそうよ。線を引くのをやめようよ。
電波男はオタクにとってそういう三つ目以降の選択肢を示した啓蒙書だよ。
まあ、人が何を考え、どういう選択をしようとそれはその人の自由なんだろう。犯罪とかにならない限りはね。
だから、この方が強者への道を突っ走ったとしても別にそれはそれでいいんだ。
ただ、一つだけ聞いてみたい。勝者になった後のこの方に尋ねてみたい。
「それでアンタ、幸せ?」

追記。
もしかしたら、「三つ目の選択肢くらいわかっとるわ!」と言うかも知れない。
でもその時は逆に質問したい。なんでそれ選ばないの?