しずるさんと偏屈な死者たち (富士見ミステリー文庫)

人は誰しもなにものかを隠し、誤魔化しつつ日々を過ごす――況んや、死者に於いてをや
――〈錯誤に埋もれる虚偽〉
冒頭からツッコミなんですが、この文章は典型的な誘導による論理の飛躍が使われており、論理が成り立っていないのに一見読者を納得させることを意図しています。推理小説におけるミスディレクションの真髄を説明したような印象を受けますね。
第一の命題「人は誰しもなにものかを隠し、誤魔化しつつ日々を過ごす」から第二の命題「死者は生者以上に誰しもなにものかを隠し、誤魔化しつつ日々を過ごす(意訳)」を導こうとしていますが、本来この二つの命題の間には、明確な相関関係があるとは誰も証明していない訳です。実際のところ、死者は日々を過ごす――生活をしないのですから、第二の命題はむしろ「死者は生者のように、隠し、誤魔化しつつ日々を過ごしたりはしない」とならなければおかしい訳です。
読者はこの文章の製作者の提示した(あまり正しいとは言えない)生者と死者の関係を無意識に押し付けられているのです。
まあ、ともかく。
――はりねずみチクタは一体何の寓意なんだろう?
これは私の勝手な理論なのですが、ミステリ形式のコンテンツは「謎の発生(これをさらに「手がかりの提示」に分割することができる)」と「真相の披露」の要素に分割還元できる訳ですね。要素と言ったのは、コンテンツが必ずしもクイズ番組のように「問題編」「解決編」にきっちり分割できるのではなく、連続する物語の中にそれぞれの要素に分類できるセンテンスが点在するのがむしろ一般的だと思うのです。そういう意味で、この小説はむしろ非常にわかりやすく出来ています。よーちゃんがしずるさんの所を訪ねて帰るまでが「謎の発生」、よーちゃんが自分の脚で事件のことを調べるのが「手がかりの提示」、最後にもう一度よーちゃんがしずるさんの所を訪ねていくのが、「真相の披露」にあたり、要素をパートにきっちり区切っています。
こうすることの利点は明らかで、それぞれのパートについて自由自在に要素を加除することで、設定の追加や、伏線の未回収などを未然に防ぐことが可能になります。
ベースになるトリックはともかく、文章を作成する上ではよく計算された効率のいい執筆を可能にしていますね。
大変、参考になりました。