ゲームとストーリーの構造について考えた

そもそもストーリーとは何かと問えば、それは人間のみが持つ錯覚であると言うより他はない。
本来それぞれ独立した事象であるところの「イベント」を任意の順番で見せられる・経験することにより、そこに何がしかの一貫したパターンを見出すのは、過去を記憶し未来を想像できる人間にのみ許された贅沢であり、かつ人間だけが陥る誤謬でもある。
実際のところ、こんな大上段に構える必要はなくて、手法のレベルで言っても映画業界では昔からモンタージュ技法なるものが提唱されたりもしている。説明のない映像を考慮して並べることで、視聴者をなんらかのストーリーに誤解もしくは誘導させることは意識して行われてきた訳だ。
ゲームのストーリーなるものは、結局はこの独立したイベントの連続、その順序によってなんからの幻想を抱かせるものと定義できる。
私の知る限り、最も古くかつわかりやすい例は、家庭用ゲーム機で流行した「育成ゲーム」がそれに当たる。「ときメモ」「プリンセスメーカー」を祖とし、一時期大量に出現したそれらは、一度のプレイでは決して見ることのできない膨大なイベント量を投入することで、千変万化する「ストーリー」を得た。ただし、その代償として失ったのは、それぞれのイベントにおけるディテールの細やかさであり、さらには総当り的なデバッグを事実上許さないイベント量による、バグやストーリー上の不整合などの弱点も抱えることになった。
その後育成ゲームは下火になり、この構造的な欠陥はアルファシステムの登場まで放置されることになる。
アルファシステムが「ガンパレードマーチ」「絢爛舞踏祭」「ガンパレードオーケストラ」を通じて目指したものは、事前にイベントを用意するのではなく、AIとプレイヤーの行動の結果として最適なイベントが「発生する」構造であった。事前に全ての展開を読み切るのではなく、即興にまかせると言う逆転の発想である。と、同時にそれは現実世界のゲーム世界への落し込みと言う点で、旧来の手法よりも合理的とすら言えた。もっとも、その定義を字義通りに実装するのは、相当な技術力が必要であり、またメッセージの事前作成や固定したイベントを完全に排除するのに成功した訳でもなかった。
ただし、イベントそのものではなくイベント生成のルールを設定する、と言う手法が提示されたのは大きな進歩であった。
決して直接の後継者ではないだろうし、全くの当初から最終的な姿を想定していたとは決して思わないが、「ひぐらしのなく頃に」はこれに近い構造を持っていた。やっている最中は五里霧中だったが、終わってみれば「ひぐらしのなく頃に」とは舞台とキャラとキャラのルール、それに若干のサイコロ、これだけで作られていたことがわかった。もっとも、その世界観を語るのに、システムではなく大量のテキストのゴリ押しを選んだ点で、手法的には全くもって論外あるいは原始時代とすら言える。
しかしながら、二次創作まで含めるとこの繰り返しを許容しルールから逸脱しなければ何をやってもよいと言う構造は非常に便利であり、たくさんの同人誌はもちろん、テーブルゲーム「汝は人狼なりや」と結びついて「ひぐらし人狼」なるものも登場した。
当初から指摘されており、また恐らくは作者も知っていたであろう「汝は人狼なりや」は、ルールによってプレイヤーの行動を束縛すると言う点で「ひぐらしのなく頃に」と同様の構造を持っており、かつよりフレキシブルに、偶有性と一回性の輝きを放っていた。
そう、ストーリーを生み出すロールと言う概念は、既に世に提示されていたのである。旧約聖書に曰く、「日の下には新しいものはない」のである。
さて、長々と書いてはみたが、一応結びを置いておく。
今年の抱負は、人狼的な構造を持つゲームをナントカして作ること。以上!